堺屋太一文[2004/06/19・Vol.02石田三成]





巨なる企て...


 徳川の側から見れば「誠にムカつく奴」とか「小生意気な行政官僚」で、加藤清正などから見れば「ずるがしこい横柄者」とか「口先ばかりの輩」などとなるのであろう。しかし彼ほど豊臣家にロイヤリティーがあり、ある意味剛毅な男もいなかっただろう。例えばこんな話がある。三成がまだ小姓で400石の頃、渡辺新之蒸なる豪士を抱えた。柴田勝家が1万石で招聘しようとしても「10万石でなければ」と断ったという男である。それが400石の三成の家来になった。驚いた秀吉が「どのように口説いたのか」とたずねると「100万石の太守となったら10万石を与えよう。それまでは、今の私の禄400石をそっくり新之蒸に与えました」と答えたという。そして、三成は新之蒸のところに居候したらしい。また、島左近の時も「自分の禄4万石の半分の2万石を与えた」との事。そして彼は言う、「奉公人は主君からいただく物を使い切り、残してはならい。残すのは、盗むに等しい」と。
 また機転のきく男でもあり、淀川の堤防決壊には米俵で対応したと言う。土嚢を作っていてはとても間に合わなかったからだ。義侠心としてはこんな話もある。ハンセン病を患っていた友人「大谷吉継」が太閤の茶会に呼ばれた。無造作に隣に座った彼は、吉継の洟が落ちた茶を何も言わず飲み干してしまった。これには吉継は心の中で手を合わせ、太閤秀吉は心の中で手を打ったという。
 こんな彼は、豊臣家に対するロイヤリティーと正義感と悲壮感から『巨なる企て』を起こすのである。彼は五奉行の一人で、近江佐和山19万石の大名でしかない。一方、徳川家康は関八州に255万石を有し五大老筆頭である。今で言えば、実力派大副社長と企画室長くらいの差がある。しかし、彼はお家のため・正義のため立ち上がるのである。結果的には、それが徳川にとって、太閤崩御からあれだけの短期間で政権を奪えることになったのだが...
 この本を読んでいると、彼・石田三成の不倒不屈の精神力と企画力には頭が下がる。そしてそれを上回る家康の老獪さ。しかし歴史は結果であり、「もしも、だったら」はあり得ない。が、その当時の人々は今の我々が知っている結果は知らないのだ。家康でさえ悩んだであろうし、三成も苦悩したのだ。この本は、今までの歴史書とは違った観点から描かれている。家康嫌いな方は、是非ご一読を!