五木寛之[2002/06/03・Vol.07 メルセデスの伝説]



ロイヤル・マルーンの怪物、宮内省のメルセデス。

 ドイツ語のグロースは、偉大なと言った意味だ。そして、グロッサーとは、あくまで巨大・強力で、限りない威厳を感じさせる車、いわば滑稽なまでの荘重さを備えたスーパー・メルセデスなのである。
その1号車は、1930年に完成している。生産番号770〈グロッサー・メルセデス〉は、7655ccの排気量を持つ直列8気筒、オーバーヘッド・バルブエンジンの超大型車だ。そしてこの車は、大いにヒットラーに関わりを持つことになる。

 さて、上の写真は、1943年(昭和9年)に宮内省に納められた御料車のうちの1台である。客室の内張は、京都で特別に織らせたの西陣の布張りである。屋根とフェンダーは黒、車体は我が国においてため色(マルーン)に塗られた。その塗装のために、北陸の能登半島から、輪島塗の名工が幾人か呼び寄せられたとの噂もあったという。
ラジエーター・グリルの前面と客室ドアーの左右には〈菊の御紋章〉がつけられ、厚さ5cm近い防弾ガラスが使用されていた。

 この実在の車をヒントに描かれたのが、《メルセデスの伝説》である。主役の白銀のグロッサーは、ドイツから日本に渡り、様々な人々を巻き込んでいく。
製造に携わったユダヤ系の職工たち、日本で隠匿していたフィクサー的な老人、野心に燃える女性TVプロデューサー、そして主人公の放送作家。
話は2転3転し、思わぬ方向へ進んでいく。昭和史の闇が浮かび上がってくる。

 そしてこの小説(講談社文庫)の解説は、是非読んでいただきたい。一般に解説は、小難しいものが多い。読んでいて嫌になると言うか、解説から先に読んだら、その小説を読みたくなくなるようなものが多い。しかし、この解説は卓抜だ。この解説を読んだら、きっと《メルセデスの伝説》を読みたくなるに違いない。こういう人に、どんどん解説を書いていただきたいものだ。その人とは、内藤陳氏である。



Data:メルセデスの伝説
講談社文庫「い-01-46」、平成2年6月15日発行
平成2年→1990年